昭和47年4月16日 特別奉修委員 【入力者:ハルコ】
えー、それが繰り返し、繰り返しけいこされて、そして、治まるのです。だから、そこんところがやはり、梅の花の信心がいるのですよね。辛抱がいるのです。
今日は、私は、治めるじゃなくて、治めるのム口とこう、ム口のところだけを頂いた。これは、土台の台ですよね。だから、今朝から頂きますように、まあ、例えば御理解、結局、心の確認をさせてもうらことから、心のおー、心の、大事にしなければおられないことになってくる。その、その心を大事にさせて頂く、心を確認させて頂くということの、土台になるのです。ね、ム口ということは。ね。無口になったからすぐ治まるということじゃ、けして無いのです。
ですから、そこんところを繰り返し、繰り返し、もう、黙ってこらえときゃというのじゃないくてですね、そこんところが、梅の花の信心で。そして、それんところを、おー、例えば、繰り返し、繰り返し、例えば、あー、そこんところを修行させてもろうて、治まったときですね、初めて、えー、やはり心を確認することができるわけですね。なるほどということになってくる。
もちろん、黙って治めるという、黙って治めるということ、無口ということは、黙ってさえおればよいということではないですよね。例えば、目に余るようなことが、いろんな、あー、どうか一口言わなきゃならんというような時、言わんということは、そのことを通して、やはり自分が、改まることですよね。磨くいて。神様に向っていくということは、そういうことなんです。ただ、そのたびに、拝むということだけじゃない。いわいる、改まって、そのつどつどに、拝んでいく。そのつどつどに、まあ、あの、あー、神様にうちむこうていくというのですからね。
結局、無口ということは、今朝から頂くような、あー、いわいる、一人でに物が出来るようになるという、治まりということですね。一人でに物が出来るようになってくる、おかげが土台になるもの、台になるもの、というほどしに素晴らしく。けれども、これには、なら、最近毎日言われとる、梅の花の信心、辛抱がいること。黙っとったら、もうすぐ、おかげが現れたというのじゃないのですから。ね、そこんところが、梅の花の信心でいかなきゃいけない。どうぞ。